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教員対談

第2回 (2010.01)

竹市良成×泉寛幸

コミュニケーションの補助手段が主目的になった

――お二方が最近の学生を見て気になっていることがあれば、そこから対談を始めたいと思います。

泉: 情報環境を学生に教えていて気になることは、パソコンやケータイの使い方に慣れているけど、文章を読まない――イメージとかを見て判断して、じっくり物事を考えていないのが気になっています。

竹市: 新しいメディアの発達はありがたいことだと思う。ただそれは人間が物事を考える上でのひとつの補助手段であると思っている。けれど補助手段でなく、例えばケータイなどのそれが主目的になっていて、それに乗せるべき中身について検討されてないというのが、泉先生の話を聞いての感想です。

泉: 補助手段が主目的になったというので感じることで、学生がテーブルに座って集まっているけれどお互いが話し合っているのではなくて、それぞれがケータイをいじっている光景がありますね。もしかしたらケータイで話をしているかもしれない――それもお互い全然別の人と話をしているんじゃないかと。なんかおしゃべりとか人が集まることが目的じゃなくて、ケータイの世界で閉じこもっている。ケータイで自分の世界を作っているあたりがちょっと怖いですね。

――竹市先生は教育のことを研究していて、その中で「個」のあり方あるいは友達関係・人間関係のとり方・教育のあり方がどのように変化してきたと思われますか?

竹市: コミュニケーションの手段は私が子供のころと比べたら雲泥の差にまで発達しました。それで人と人がより繋がるかというとそうでもなく、決してうまくいってないし浅いです。

昔は手紙を書いて人にものを伝えていたから手間暇がかかったけど、今はEメールを使ってその場で送れます。

そこがものすごく大事なところで、何か気づいたとか「講義が終わったから食事に行こう」とかが主たる目的として行われていて、手紙を書くときのような "相手にどう伝わるか" などをじっくりと考えることがないのです。

我々は便利さを手に入れたかもしれないけど、失うものも結構大きなものを失ったかもしれません。この言葉を相手に投げかけたら相手はどう思うだろうかと、相手を思いやることは大変重要なことだと思うのですが、それがないから現代はこんなに便利になったのに殺伐したなと思います。

それで子供にGPS機能付きのケータイを持たせて防犯対策にするようなところで一所懸命になるのだけれども、罪のない子供がそんなものを持って他人を疑ってかからないといけないような社会を作ってしまったことの方が大きな問題です。本来、人を信頼することが初めになくてはいけないのに、疑うことが初めにあるのはいかがなものかと思いますね。

泉: 私は情報関係の仕事をしているので、大抵「情報機器を使ってどうやって解決していくか」という考え方に陥りますね。

例えば子供が危ないから情報機器を使って子供の安全を確保しようと考えるわけです。

でもその前提として、子供は地域でもっと見守られないといけないとか、地域の人が子供の安全について相談したり、遊び相手になったりとか、そういった地域のコミュニティをおろそかにして安易に考えている。それが情報機器に頼りすぎてコミュニティ全体が浅くなった原因じゃないかと思います。

電話が普及したから会って親密に話す機会が減ったとか、ケータイが普及したからじっくりお互いに相談することがなくなったとか、手紙のように相手のことを考えてから相談に行くことがなくなった。私のように情報機器でコミュニケーションを発達させた人間からしてみれば、予想もしなかった副作用だった気がします。

竹市: 年をとってきて思うのですが、時代に遅れるのも悪くないなと逆に思い始めてきました。時代の先端を行くこともいいかもしれないけれど、アナクロであってもいいではないかと思えてくる。世の中が便利になっていくことはいいことだけれど、人の心に寒々としたものがあるのかというのが非常に感じる。

物をいたわるとか思いやるとか、どこに置いていったのだろうかと思います。

――世の中はどんどん便利になる方向へ進んでいったのですが、結果的に人間がコミュニケーションスキルや物をいたわる心が退化してきたというのが今のお話の中でありました。ではそれを昔に戻すといった考えはありますか?

竹市: それはできないでしょう。

――では、これからの我々の社会は、便利であるということにかまけずにそれらを取り戻すのに何が必要なのか、そういった部分でどういったことができると思いますか?

竹市: 例えばケータイなどで伝える内容を送る前に一呼吸おいてみることからはじめることが大事だと思います。ケータイを使っている人を見ると、ちゅうちょせずに使用したり送信しているから、行う前に「今伝えるべきことなのか」とか「伝える価値があるのか」と考える。食事中に突然連絡がきたりと相手の生活ペースに割り込んでくるのだから、相手を思いやることが大切ですね。

泉: まずメールを送る前に「今送る必要があるのか」と考える必要がありますね。

あとは思い切って「情報遮断の日」を設けてみるのもいいんじゃないかなと思います。ケータイの待ち受けをみて「いつ連絡が来るのか」を待っている状態――自分がメールを送信してその返信がいつ来るのかを待ち続ける、送ればすぐ来ると勝手な期待を抱いているのは、生活がケータイに振り回されているから、例えばその日だけケータイを持たないとかすれば「ケータイがなくても生活に差支えがないんだ」と気づいたり、もっといろいろなものが見えてくるんじゃないかなと思います。そうすればケータイに振り回されるのではなくて自分でケータイを使いこなせるのではないでしょうか。

――お二方の話を聞くと、思いやる心や、情報機器から離れることでいろいろなものが見えてくるだろうということですが、学生が身に付けたり不便な生活を体験することはどうなんでしょうか?

竹市: 学生に不便な日を作らなくても構わないです。要するに今の状態で電話をかけるときに「これは今伝えるべき内容なのか」と考えることです。「○○DAY」とか「○○週間」とか無理が生じて長続きしないので、3回に1回程度メールを送信するときに「これは送信すべきことなのか」と考える。それくらいからはじめるといいんじゃないかなと思います。

「教育」という言葉を使わないやり方で伝える方法

――――話の内容が少し変わりますが、教育という中で教員だけでなく大人から子供へ物事を伝えていくことがありますが、背中を見せるとか職人的な伝え方――「教育」という言葉を使わないやり方で伝える方法についてどうお考えですか? 泉寛幸だと工学部出身ですので研究室での教育は職人的なやり方だったのではないかと思われますが・・・

泉: 今の子供は技能や職人技を軽く見ているというかピンと来ていないだろうと思います。

ケータイをちょっといじれば仕事をやった感はあっても、物を何時間もかけて作ってきたというのが今の子供たちは分からないのじゃないかと思います。

そのひとつとして、身の回りに職人が少なくなったというのがありそうです。だから「ものづくりの国日本」が危ないんじゃないかと。

例えばトヨタ自動車の工場の裏には、職人的な世界の人がいっぱいいて支えあっている。けれど製造工場の写真を見ているだけでは、機械が自動的に車を作っているように見える部品の一つ一つは、職人さんが精密な形で作っているから、その裏が全然見えていない。だから技能とかを体で覚えることが大事だろうなと思っていますが、今もって成功していません。

竹市: 僕は親父が木工の職人で、子供の頃に見ていたことなんですが、ある職人さんが「雇って欲しい」と来るわけです。そこで履歴書もなしで道具箱だけがあって、親父がその箱の中を開けて鉋(かんな)だとか鑿(のみ)や鋸(のこぎり)を見るわけです。親父は道具を見ているけれどずっと黙ったままで、しばらくすると「幾らでいいか?」と相手にきくのです。道具の状態を見てその人の給料を決めるわけです。つまり道具を見て使える職人かどうかを判断するので、相手も心得たもので「よし」なんです。

子供のときは何をやっているのか分わからなかったけれども、年をとって分かったのは実はそれはすごいことで、我々が教育で一番欠けていることは相手の長所を見破るところなんです。誰も彼もがものすごくいいものを持っていて、それを見破るのが教師の仕事で、それがプロです。僕もここ5、6年でそれについて自信が付いてきて、人と接したときに見えてきます。むろん悪さも気付きますけれどそれは絶対言わない。いいところだけ言うとそこが伸びるのです。

それでゼミ生に口が酸っぱくなるほど言っていることで「好きこそ物の上手なれ」、それが殺し文句です。

一回しかない人生だから好きなことをやれといいます。それは誰にも負けないことで、その人の最大の強みです。だからそれを考えろというのです。この激動の時代の中どんな一流企業でも長続きするか分からないのです。頼るのは自分しかないので好きでしょうが、ないことに没頭できるのが強みですし、職人的な何かをつかむこともできるでしょう。

今の教育の場では「学力が低下した」というけれど学力が低下したのではなくて子供の「学力」を教師が見つけられないのです。要するに教師がプロ意識をなくして「ある水準以上でないと教育できません」と言っているわけだれけどもそれは教育ではない。どのレベルでもやってのけるのがプロってものです。それが今の教師の中で欠けているものですね。

泉: 様々な「学力」があるということですが、私の気になっていることで、いろいろな学校で「eラーニング」というのをやっています。

けれどそれは点数評価だけで技能を評価しているわけではない。点数で計れるような知識を評価しているだけです。

私自身eラーニングの研究をしていて今の話を聞いていると、その人の技能や、やる気が評価の内容から、はずれてしまう。そういったものが情報機器を扱う際に評価対象として出てくるんじゃないかなと。だから教師がそれらをeラーニングでは評価できないことと積極的に見極めて、学生と見つけ出していくことが必要じゃないかなと思います。単純にシステムを作ってそれにまかせてしてしまうと、大事なものを見落とすんじゃないだろうか。その辺が正直気になっています。

あともうひとつ、職人として学生自身に対して「これが大事だよ」と伝えるにはいろいろな人と付き合ってみないと分からない。ところが今の学生はケータイと向かい合っていても人と話し合うだとか交流することが少ないんじゃないかなと思うのです。ケータイを通して人と通じることが人と付き合っているかのように感じて、実際に顔を向かい合わせて初めて分かるようなことがなくなった。講義で「この子は分かっているな」と感じることはあるけれども、もしそれがケータイやパソコンを通して講義をしていたら分からないだろうなと思います。

本人を目で見て分かることはあるけども、それがコミュニティ機器を通すと分からなくなってしまう、それは怖いことです

学生を見ていて人と通じることが「浅い」と感じるのは、人と付き合うことが少ないからじゃないかと思いますね。

竹市: さっき話したように、コミュニケーションが頻繁に、便利に、しかも簡単にできることによって人と人との心の伝わりができたかというと、僕はできていないと思っている。そこのところを若い人に気付いて欲しい。

僕には親友が一人いて小学5年生からずっと付き合っていて、どういう付き合いかというと、年に1回年賀状を書くかどうかという時もあるし、2年くらい音信不通の時もある。

で、会えば「おう」とか声をかけるだけで終わり。それで「お前定年になったの?」とか僕のほうから茶化すと相手も「いつまで働いているんだ」と言うわけです。

それで何年かに一度会って食事をして、どうということもないことを話して勘定になると「俺今日あるからいい」とどちらかが自主的に払う。それでお礼がくるとかそんなことはなく、まったく自然体で行動が進む。

そういう会話が長く続いて、人と人とを結びつける大事なことです。

ではあれだけ頻繁にケータイをいじっている若者にこの先何十年と付き合える人がいるかというと、残念なことですがいないと思う。

――今の竹市先生の話を聞いて、学生がこの学部4年間を過ごす上で、人間関係を築き本当の意味での友達といえる仲間を見つけていけるといいだろうと思います。
まとめると、当然講義や授業といった学びの場以外にも、学校ではいろいろな生活の場があるのだから、そういったことのできる場を教師が与えられることができるかというのがひとつの課題でしょうね。
本日はお忙しい中ありがとうございました。

教員紹介

竹市 良成 (Yoshinari Takeichi) 竹市 良成 (Yoshinari Takeichi)

プロフィール
名古屋大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得満期(1971年)。聖徳学園岐阜教育大学講師(1972年)、愛知学院大学教養部講師(1976年)、同大学助教授(1978年)、同大学教授(1987年)、同大学教養部長(1994年)を経て、2002年に愛知学院大学情報社会政策学部長。 2006年からは愛知学院大学大学入試センター部長。
研究分野・専門分野
教育学専門としているのは、西洋教育史。特にその内でもアメリカ教育史である。19世紀中盤のアメリカ公立学校成立史が主たる研究分野であるが、現在は1980年以降の新自由主義による日本の教育改革の比較研究も併せて研究している。

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泉 寛幸 (Hiroyuki Izumi) 泉 寛幸 (Hiroyuki Izumi)

プロフィール
電気通信大学大学院 電子計算機学専攻修了(1980年)後、名古屋大学大学院工学研究科満了(1983年)。株式会社富士通研究所(1983年~1998年)を経て、愛知学院大学情報社会政策学部(1998年)。電子情報通信学会、情報処理学会、人工知能学会に所属。
研究分野・専門分野
  1. マルチメディア情報処理: ネットワーク上の文書・画像・音声の情報処理方法の調査研究
  2. 情報システムの社会的影響: ユビキタスコンピューティング等
  3. 数理モデル: コンピュータ上に複雑な情報をどのように表現するか

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